自意識系ラブコメを考える セカイ系The final

・自意識系ラブコメとは

 

 自意識過剰なラブコメ*1のこと。主人公とヒロインの間に社会的な階級の差があり、それが恋をしていくうえで壁になってクヨクヨする作品。

 たいていは主人公が"下"でヒロインが"上"です。もちろん人間の価値に上下なんて存在しないと思ってるけど、まあそこに悩むからこそ自意識系というか、屈託がないと始まらない。

 代表作は『僕の心のヤバイ奴(以下、僕ヤバ)』と『彼女お借りします(以下、かのかり)』。

 『僕ヤバ』は中学受験に失敗して内向的になってしまった主人公が同級生のモデルを好きになる話で、『かのかり』は自堕落な普通の大学生がレンタル彼女をやりながら女優を目指す同級生を好きになる話。

 どちらも「自分みたいな人間がこんな凄い人を好きになっていいのか、好きなってもらえるのか」という逡巡がフォーカスされがちです。

 「禁断の恋」とか「立場を超えた恋」など昔から馴染みのあるモチーフの現代版orオタク版と言った感じ。恋愛物では恋を阻む障害が大事なわけだけど、自意識系ラブコメではそういった"壁"は(半分くらいは)ウダウダした自意識で作られてる。ドラマティックで壮大なものより身近なもの、というのが非常に現代的だ(適当)。

 

 

セカイ系と自意識系ラブコメ

 

 「エヴァっぽい独り語りの激しい作品」と言われていたのがいつの間にか評論家の間では「君と僕との関係が社会という中間項を抜きに世界の運命に直結する作品」になり議論は激化して行き......。*2

 『イリヤの空、UFOの夏』『ほしのこえ』『最終兵器彼女』などの作品がセカイ系と呼ばれてたらしい。

 まあ定義は置いておくとして、大事なのはセカイ系作品の「重大な使命を背負ったヒロインは戦いに出向き傷つくも無力な主人公は成す術がない」みたいな要素に我々は熱狂してたということです。セカイ系と呼ばれた作品たちがオタクに訴求力を持てたのは、そういう好きな子への手の届かなさや無力さみたいなやきもきした感情がマゾヒズム的に気持ち良かったからなんですよ。NTR漫画が気持ち良いのと同じです。(諸説あり)

シンジくんや浅羽はまさにその無力さが気持ちよくて自慰行為に耽ってたし。(違う)

 で、こういう自分の至らなさとかヒロインへの手の届かなさみたいなやきもきした気持ちよさは自意識系ラブコメの真髄でもあるのです。

 

 

・自意識系ラブコメの断絶

 

 ここが1番のキモなんですが、好きな子に自分の関われない、しかも本人にとって重大な部分が存在するとめちゃくちゃモヤモヤするんですよ。もしかしたらそれは恋より優先されてしまうような部分だったりする。恋より大きな存在。それはもう恋敵です。

 僕ヤバとカノカリのヒロインがそれぞれ属するモデル界/演劇界は物語上同じような役割を果たす。そこには主人公なんかよりもイケメンで社会性があって自立している人がいくらでも存在して、自分とそれらを比較してダメージを負ったりするわけです。自分の知らない世界で自分と違ってこんなに輝いてる。自分との恋なんかより大事なものかもしれない。自分より優れた同性も沢山いるからNTRの可能性もある。その現実が主人公と読者の心をグサグサ刺す。これがストレスであると同時に気持ち良いのなんの。

 

 自意識系ラブコメでは、主人公とヒロインは今にも切れそうな細い運命の赤い糸で繋がれています。『僕ヤバ』では同じクラスなのにも関わらず図書室でしか言葉を交わしません。『カノカリ』では同じ大学なのに大学で関わることは0に近い。元々共通点がなく立場も違うので、口実がなければ関わることすら出来ない。ラブコメ作品なのでヒロインとは恋人関係を結ばなければいけないのに、知人関係すら薄氷の上に成り立ってるのです。陰キャ陽キャの恋愛が成就するというファンタジーにおいて、周りを装飾する要素が現実的で生々しいからこそよりその恋に重みが増すんですよね。

 

 

・まとめ

 

 あの日あの時セカイ系と呼ばれてた作品を読んでたときの辛いけど気持ち良いような不思議な気分は

・惨めで無力な自分というマゾ的な自己憐憫の快感

・自分の知らないものがヒロインの重要な部分を占めてしまうというNTR的快感

があって、それはラブコメにも通じる作品があるなー、というお話でした。

 

 

・おねショタと自意識系ラブコメなどジャンルの話

 

 おねショタは「お姉さんに並びたくて背伸びするボク」みたいな自意識の構図が頻出しがちなので自意識系ラブコメっぽいのないかなー、と探したけどショタにはたいてい屈託が足りないので少しジャンルが違うらしい。

 それとは別に、天気の子よろしく「"大きなものが小さな君の肩に乗ってて"主人公もそれを君(お姉さん)と一緒に背負いたいけど自分の存在が小さくて背負えない」みたいな「闇を抱えたお姉さん系ラブコメ*3」というのがあり、これは自意識系ラブコメとほぼ同じ味がするんだけど卑屈さが足りないかな〜、ということで別ジャンルな気がする。

 

*1:この記事では恋愛物とラブコメを区別しません

*2:参考 前島賢,セカイ系とは何か,星海社

*3:

『水は海に向かって流れる』『隣のお姉さんが好き』『波のしじまのホリゾント』など

響け!ユーフォニアムにおける「特別」を巡って

※この記事には響け!ユーフォニアムのネタバレを含みます

「他人と違うことがしたかってん」

「祭りの日に山に登るようなあほなこと、ほかのやつはしいひんやろ?」

「他人から称賛されたい。ほかのやつらと同じって、思われたくない」

「だからアタシは、吹奏楽をやってんねん。特別でありたいから」

(武田綾乃,響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ)

 

 響け!ユーフォニアムにおける「特別」は麗奈の「卓越してる部分に人との差異を見出す」ところから始まる。これは辞書的でストレートな特別という言葉の理解だろう。

 しかし同様の意味で周りから特別と見られていた田中あすかはむしろ特別でなくなることで救済される。何でも出来て雲の上から部活を見下ろしてるように思えた彼女も、"普通の人"と同様にトラブルや無力さを抱えていて我々と変わらない存在だと周知されることで部活への復帰を果たすのだ。

 この2つの相反する要素で響け!ユーフォニアムにおける特別観とそれにどうコミットしたかという問題は複雑になってしまった。それに対して中世古香織は一つの解決策を提示してくれる。

 

「晴香はね、あすかは特別じゃないって言ってたけど、私、やっぱりあすかは特別なんだと思う」

「あすかだけじゃなくてね、きっとすべての人間が特別なんだろうなって思うの。黄前さんにとっての麗奈ちゃんも、麗奈ちゃんにとっての黄前さんも。誰かは誰かにとっての特別なんだよ。だからやっぱり、あすかは私にとって特別。あすかにとって、私がそうでなくてもね」

(武田綾乃,響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 後編)

 

 この香織による特別観は哲学での「愛とはどういうものか?」という議論と非常に似通って見える。

 愛は何に基づくのか?という問いにおいて相手の容姿が優れていることや裕福であるという性質に理由を求める議論は

・それらの要素が変化したら愛さなくなるのか

・上位互換が現れれば愛情がそちらに移るのか

という問題からそれだけでは説明がつかず、愛の対象は代替不可能性があると言う。そういった代替不可能性は経験が育むのである。

 社会心理学では、夫婦間の絆をどう維持するかという問題ではロマンティックな愛情が大きな役割を果たすという研究がある。そこではロマンティックな愛情を感じた経験のあるカップルほど別の魅力的な異性を見た後にその異性のことを考えなくて済むと説明する。*1

愛は相手の性質に惹かれたりきっかけになるなど重要な位置を占める一方、愛を育む過程でした体験も代替不可能性をもたらしより深い愛となっていくのである。

 

 これはまさに香織の特別観そのものではないか。卓越性を失い誰かから特別でなくなっても(あるいは最初から特別でなくても)誰かにとって特別であることは可能なのだ。全国金賞という特別(卓越性)を目指した『響け!ユーフォニアム』はある一方では卓越性に囚われることのない特別(愛情)の物語だったのである。

 麗奈の特別観をそのまま採用するのであれば響け!ユーフォニアムを「特別になろうとする麗奈を久美子は追い求め、その為に久美子も特別になり2人でソリになることで特別な関係を結んだ物語」とすることも出来る。そうすると楽器の実力が足りなかった故みぞれと添い遂げられなかった希美は特別な関係を結ぶに至らなかった過誤の物語となるはずだ。結局音大に進んだ麗奈と進ま(め)なかった久美子もみぞれ-希美関係のリフレインにしかならない。それらを解決する為に私は中世古香織モデルの特別観を支持したいと思う。

 "そこら中に代替品が転がってる世の中"でも人が特別である方法は存在するのだ。

 

 

 

参考文献

北村英哉・大坪庸介,進化と感情から解き明かす 社会心理学,有斐閣 

源河亨,愛とラブソングの哲学,光文社

稲岡大志・長門裕介・森巧次,世界最先端の研究が教える すごい哲学,総合法令出版 

 

*1:Gonzaga et al., 2008

中二病からの卒業

※この記事は響け!ユーフォニアム3期のネタバレを含みます

 

 Filmarksで『響けユーフォニアム!誓いのフィナーレ』の感想を眺めてると印象に残るものがあった。

私みたいな主人公のアニメだと思ったら

成長して私じゃなくなった 

http://filmarks.com/movies/65843

 この方が黄前久美子のどんな部分に自分を重ねていたのかは知る由もない。しかし私もこの映画の原作小説である『波乱の第二楽章』を読んでいた時に(表面上は)全く同じことを思ったので驚いた。『響け!ユーフォニアム』シリーズは大きなヒットを産んだが、どういうわけか主人公と自身を重ねるような声はあまり耳にすることがなかった。しかし個人的には、比企ヶ谷八幡やキリト、あるいは後藤ひとりや猫猫などの、俗に言う『自己投影型主人公』と同じように自分を中二病的に重ねたくなる人物だったと思っている。どういう部分が一部の私のような読者に刺さり「これは私だ」と思わせ、どう「私で」なくなっていったのか。黄前久美子という人物を考えることで『響け!ユーフォニアム』とはなんだったのかということを明らかにしようと思う。

 

眼帯をつけた黄前久美子

 

中二病

 「多感な時期に自己と他者の区別への欲求が高まりその結果として出力される行動」中二病の定義をするのならばこんなところだろうか。先に挙げたような主人公たちは人間関係や世俗に対して一歩引いているが、他人よりも優れた部分を持っていて個性的で一目置かれる存在である。見事なまでに我々のような中二病患者が憧れるような要素を持っているのだ。

 例えばぼっちざろっくであれば、作中で後藤ひとりよる陰キャあるあるが幾度となく披露され視聴者の共感を誘う。しかし彼女はYouTubeで何万人もの登録者数を誇るギター奏者という一面を持ち、周りからは「実は面白い子なのに周りには伝わらない」と評価されている。

 こういった「自分が共感出来るような至らなさ*1」と「周りとは違うという点での長所」が上手い具合に混じり、「これは自分だ」と言いたくなるような自己投影型主人公が出来上がるのではないだろうか。

 

 

・不敗

 原作一巻の黄前久美子はエンターテイメントの主人公にしては特異だと言っていいだろう。普通であれば主人公ならば挫折*2スキルアップや成長というイベントを経験するだろうが、そういったことは何も起こらない。久美子の演奏技術にスポットが当たることはほぼ無いし、物語を大きく動かすこととなる親友のオーディションや、幼馴染が部活を辞める局面でも、声をかけたり側に居てあげる程度のことしか出来ず大きな影響を与えることはない。*3

 

 しかし中二病的にはこうした行動や立ち位置は大きく魅力的に映る。何かに大きく巻き込まれない人は平然といられる。常に外側から物事を俯瞰し、取り乱すことのない人はかっこいいのである。これは近年Twitterなどで話題になる"冷笑系"*4と共通する部分があるのではないだろうか。必死になって議論するのはダサい。自分は真実を理解しているという風に冷ややかな目で社会問題を揶揄する。そうしていれば失敗して無様な自分を晒すことはないし、無謬で高潔な存在としての自分を固辞出来る。無論これをもって久美子が冷笑系などと主張するつもりは毛頭ない。ここで言いたいのは傷いていない人はかっこよく魅力的に見えるということだ。

 

 

・平凡さ

 前項で述べた久美子の「傷つかなさ」は勇気のなさから由来している。一年生編の集大成とも言える久美子が恐怖心を捨て変わろうとしている場面では、先輩である高坂あすかによりそうした部分への鋭い指摘が行われる。

「いつだって久美子ちゃんは最後の境界線を越えようとしいひんかった。傷つくのも傷つけるのも怖いから、なあなあにして見守るだけ。それなのに、どうして相手が本音を見せてくれると思い込んでんの?」

武田綾乃,響け!ユーフォニアム 3 北宇治高校吹奏楽部、最大の危機

 友人だろうが結局は他人であり完全には理解することが出来ない存在なので深くに踏み入るのは怖い。私を含め現代的な語彙でいう"コミュ障"を自称する人にとってはあるあるなのではないだろうか。若い世代にとっては最早普遍的なことですらあるかもしれない。

 もう一つ久美子に強く共感した場面がある。

優子「何がいい?」

問われ、久美子はなぜかすっかり慌ててしまった。ろくにラインナップを見ずに目についたものを口にする。

久美子「あ、じゃあ、オレンジジュースで」

優子「おっけー」

(中略)

彼女から好意的な感情を受けるのはこれが初めてだったので、久美子は少しどぎまぎした。

缶を握ったままでいるわけにもいかず、プルタブを引く。

ジュースを口に含むと、柑橘の甘い香りが鼻腔をくすぐった。

武田綾乃,響け! ユーフォニアム 2 北宇治高校吹奏楽部のいちばん熱い夏

 私は日常生活の中で幾度となくこういった場面に遭遇したことがある。学校の先輩、友達の友達、親戚のおじさん......数回しか会ったことのない慣れない相手から急に好意を向けられると喜びに先んじて「驚きを隠ししっかり振る舞わなければ」という気持ちが湧く。しかし現実のスピード感が選択を許してくれない。脳の処理が追いつかず最初に目についた無難な選択を咄嗟に取ってしまう。他にも風邪を引いて吹奏楽部の仲間たちに心配されるという何気ない場面でも、改めて人の暖かさを感じて気恥ずかしくてお礼を言えなくなったり、人間関係対してナイーブで情緒的なのが黄前久美子という人間だ。

 この地に足のついた平凡さが、しかしそういう部分こそが魅力的で「これは自分と同じだ」と思わせるような魔力を秘めている。

 

 

・シニカルさ

 黄前久美子はシニカルでもあるということは『響け!ユーフォニアム』を見ていた人なら周知の事実だろう。

 これは大会で負け悔しくて泣いてる同級生に対して「本当に勝てると思ってたの?」言い放つところから物語が始まることに象徴される。高校入学初日、久美子はクラスを眺めこう思う。

中学のころは点呼で名を呼ばれても、みんなだらしなく手をあげるだけだった。しかし高校ともなると、ちゃんと返事をするようになるらしい。大人に近づくとルールに従順になるのか、あるいはこの先生が怖いからか。

武田綾乃,響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ

 高校生なのに高校生を俯瞰して評価する。それもいくばくかの皮肉を込めて。こうした冷静な視点や自己と大衆の区別という動作はやはり中二病的にかっこいいのである。

 

 

・まとめ

 勇気のなさから人間関係に多少の距離を置き、シニカルさも持ち合わせているが、ポジティブな人間観も持ち合わせている。一年生時点での久美子のパーソナリティをまとめるとこんな感じだろう。黄前久美子という人物が魅力的であるということは言うまでもなく、それも中二病的にも、身近な存在としても魅力的なのだ。

 次の章では響け!ユーフォニアムに通底する世界観と、久美子は進級することで何を失ったのかを見ていく。

 

 

 

響け!ユーフォニアムにおける成長と喪失の倫理

 

リズと青い鳥

 響け!ユーフォニアムシリーズは「成長」というテーマについて複雑な構造を持った作品である。ここに於いてはなんと言ってもみぞれと希美が思い浮かぶだろう。『波乱の第二楽章』で行われたこの二人の物語は山田尚子の驚くべき手腕によって『リズと青い鳥』と題され映画となり大きな話題を呼んだ。このテーマを考えるにあたって多少のあらすじを紹介する。

 孤独だったみぞれは希美に声をかけられ吹奏楽部に入る。希美はみぞれの全てになるが、希美にとってみぞれは友達の中の一人でしかない。歪な友人関係を続けるうちに高校生にとって最も重要な「進路」というイベントが2人に変化や成長を促していく......というのが大方のストーリーだ。

 ここで重要なのはこのみぞれと希美の"歪な関係"というのは「リズと青い鳥」のストーリーの導入や背景に留まるものではなく、原作であれば二巻、アニメであれば二期という多くの時間をかけてあまりに魅力的に描写され、我々もそれを素晴らしいものとして受け取っていたということだ。結局みぞれは希美以外の価値あるものに触れていくことで視野を広げ"成長"をし別々の進路に進むことで物語は終わる。これをハッピーエンドと評価するかどうかは意見が分かれるところだろう。実際に希美はみぞれが自分から巣立って行ってしまうことに気持ちの整理をつけられないままだ。その後を描く短編ではこんなやり取りがある。

希美「うちらの代の子はさあ、卒業したらどんな大人になるんやろね」

(中略)

夏紀「みぞれとか」

共通の友人の名前を出され、希美は一瞬息を呑んだ。何か思惑があるのだろうかと横目で夏紀を観察するが、その表情からはどんな感情も汲み取ることができない。

まるで明日の天気話をするかのように、夏紀の口調は軽かった。

夏紀「あの子はプロになれそうな気がする」

希美「そうかな、やっぱり音楽で食べていく

ことって難しいと思うし」

否定の言葉が無意識に口から飛び出した。こんなことを言うつもりじゃなかったのに、と希美は顔をしかめる。

武田綾乃,響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のホントの話

 2人の物語は綺麗に完結したはずなのに作中の登場人物も、視聴者である我々も気持ちに整理をつけられていない。元の関係性が失われてしまったことを残念に思う視聴者も多いだろう。劇場版の監督を務めた山田自身もハッピーエンドを意識したがそうでない雰囲気もこの作品には必要だった、ということを言っている。この一連の話の中で象徴的なのは、成長というのは新たな価値観や技術を拡張パーツのように自分に付け足すわけではなく、一度外してしまうと取り返しの付かないパーツを外し、別の自分へと生まれ変わる現象だということだ。成長した自分はもちろん尊ぶべきものだ。しかし成長の過程で喪失してしまった中にも尊いものは確かに存在するのである。我々も幼い頃に楽しかった体験を今同じように味わったとしても、同じような素晴らしさを感じることは出来なかった経験があるのではないだろうか。

 

 

・破った殻は戻せない

響け!ユーフォニアム」に通底する成長と喪失は表裏一体という世界観は様々な場面で姿を表す。

 優子は卒業した憧れの先輩である香織と久々に再開するも香織は大人になっており、今までのように素直に喜ぶことが出来ず寂しさを覚える。

 実力はあるのにプライドが高く部活に上手く馴染めない美玲は、友人である奏に「美玲はそのままでいい。周りに合わせる必要なんてない」と勧められる。しかし結局はとっつきにくいクールさを捨て自分が変わることを選ぶ。

 麗奈と唯一の"特別な"関係であったはずの久美子は、日々を重ね部活に馴染むことによって麗奈を名前で呼ぶ部員が増えてることに気づく。お互いがどんどん歩みを進め先に進んで行ってしまっていることに恐怖を感じてしまう。

 こうした事例はこの作品において枚挙に暇がない。この作品では変わることへの屈託がこれでもかというくらい強調されるのである。

 

 

黄前久美子は何が変わったのか

 黄前久美子は何が変わって我々の手から零れ落ちてしまったのか。彼女が初めて大きく成長を遂げたのは家庭の事情で自分を押し殺し部活を辞めようとするあすかを止めた時だ。今まではまさに前章で引用したあすかのセリフの通り「境界線を越えようとせず」部活を辞める葵に何も働きかけられなかった。麗奈と香織が揉めた時も、希美とみぞれが揉めた時も、見ていることしか出来なかった。しかし1年生編の最終局面ではそれを克服する。自分を曝け出し相手に深く踏み入ることであすかを改心させ、初めて自分の影響でハッピーエンドを迎えるのだ。そうした成長を経て上級生となった久美子は、部内の問題解決に尽力するようになり、後輩からは「黄前相談係」と呼ばれ、遂には部長を任さるまでの存在になる。

 

 「成長して自分じゃなくなった」というのはこういう部分のことだと思う。ある時にはシニカルに振る舞い、小心翼翼ながらも一歩踏み出したり踏み出せなかったり、そんな人間臭さは脱臭されてしまった。"上級生"になる為には物事を正面から受け止める実直さと、後輩を導く為の懐の深さが必要で、それは久美子のパーソナリティとはトレードオフだった。羽ばたいていくみぞれを見る希美という構図は、『響け!ユーフォニアム』を視聴する我々にも他人事ではなかったのである。

 

 

・価値が存在しない世界で

 久美子は部長に就任する際に、部活に集中したいからという理由で付き合っていた秀一と別れる。成長する為には捨てなければならないという残酷な世界観が物理的に姿を現すのである。

 その"決意"はとどまることを知らず、部長となった久美子は打算的になり、部員を部活の"手段"として見るようになってしまう。

 新入生の沙里は吹奏楽経験者だ。厳しさを増す部活の中で未経験者の1年生には吹奏楽を楽しんでほしいと必死にフォローしていたが、心労が限界に達して体調を崩してしまう。沙里を心配した一年生たちはみんなで部活を休みお見舞いへ行く。一年生が部活の厳しさに耐えかねて辞めるかもしれないという噂を耳にした久美子は「それが現実になってしまう」と焦って沙里の自宅へ行き、"平定の為に"問いただし、相談に乗る。

沙里の瞳が涙でにじむ。刺さった、と久美子は心の中で確信した。

彼女が本当に欲しているものは、自身のこれまでの行動に対する報酬だ。彼女はきっと、感謝されたい。人知れず周囲を支えてきた自分の努力を、誰かに認めてもらいたい。

武田綾乃,響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 前編

なんとグロテクスな心情描写だろう。ここで思い起こされるのは第一楽章での同じ風邪のシーンだ。久美子はあのとき部員たちに体調が悪そうなことを心配されると、改めて人の温もりに触れたのが恥ずかしくてお礼も言えなくなっていた。"慈愛"に満ちていた吹奏楽部は、久美子という指導者の手によって"打算"で動く組織と化す。

 

 

・記憶の場

 久美子は"成長"することに固執していたわけではない。高校生活や部活といったあまりにも短く余談を許さない時間の流れの中では、自覚せずとも成長せざるを得なかったのである。強迫的な変化にはコントロールが利かない。自身が気づかないうちに変化していた久美子は周りからその変容を指摘されることが多くなる。

奏「んふふー。久美子先輩って才能ある子が好きですもんね。」

告げられた台詞に、久美子は息を詰まらせた。その感想は、先輩であった田中あすかに久美子が抱いていたものとまるっきり同じだったから。

(中略)

外から見えている自分と、自分が認識していた自分。そこにあるズレが、気持ち悪くて仕方なかった。

武田綾乃,響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 前編

部の問題に曖昧な対応を繰り返す顧問を久美子は信じられなくなる。最上級生になった彼女にはもう導いてくれるような指針となる価値観は存在しなかった。しかし最終巻では混迷を極めた彼女の元に郷愁が訪れる。

 両親と喧嘩をしたまま上京をした姉が突如帰省し久美子と懐かしいやり取りを交わす。卒業した先輩3人にみぞれのコンサートに誘われ、そこで昔と何ら変わりなく喧嘩をする優子と夏紀や、希美に褒められ顔を赤らめるみぞれを目にする。最初の先輩であったあすかへ相談をし、後輩の頃の自分を思い出す。帰り道、別れたはずなのに変わらず優しい秀一と会う。

 夢でも見ているかのように懐かしいものに次々触れ、昔自分の信じていたものからエールを受けた久美子は意思を確固たるものにする。そうして大会へ臨み、最後は吹奏楽や北宇治高校が好きという気持ちに気づき、教師へと就職したところで物語は幕を閉じる。

 久美子の本筋を追っていくと、変わることへの屈託を持っていたが、それを乗り越えて成長した。というのが正確だろう。これはユーフォシリーズが「変わることは怖いことじゃない」というメッセージを発しているのだろうか?久美子が普通の恋愛をし、教師という善良な職業についたことを変わってしまったと嘆いている我々のような人間は軟弱者で「お前らも中二病は卒業してとっとと成長するべき」と突きつけているのか?

 ある一面ではそういった勇気を賞揚しつつエールを送っていることは確かだ。しかし『響け!ユーフォニアム』は決して監督がアニメを通してオタクが成長しないことを怒ってくるようなアニメではない。希美の物語を始めとして「変わることは怖くて寂しい」という面が強調されてたことを考えると、むしろ「成長する前のもの」も尊くて大切なんだと言っている気がしてならない。変わろうとしていた久美子が最後に「時間が経っても変わっていないもの」を見て、昔の自分を思い出し良い影響を受けたのはそういうことではないのか。

 希美も我々も割り切れなかった思いを抱えたまま進んで行くしかない。しかしそれは決して悪いことではない。色々あるだろうがそれでも前に進むことは出来るということを『響け!ユーフォニアム』は我々に教えてくれたのではないだろうか。この作品は「成長すること」を正面から受け止めつつ、その結果としての「成熟」「未熟」という二元論を拒否し人生の複雑を描いたところに大きな達成がある。南中の四人はこれからも"終わりなき日常"という議論を超えた先で変わらないやり取りを我々に見せてくれるだろう。

 

 

 

 

 

 

*1:

ただしこれは必ずしも自分にとって汚点というわけではない。中二病的にはむしろ社会的な評価から外れることが美点となる場合もあるのだ。

*2:

葵を止められなかったことを挫折と見る視座は存在する。ここでは直接的な自身の問題において、という意味で挫折がないことを示す。

*3:

こうした理由があってかアニメ化の際には終盤に久美子の演奏技術が足りず合奏から外され、決意を新たにより一層努力をして演奏技術を確固たるものにする、という非常にアニメ映えするエピソードが完全なオリジナルで付け加えられ、名シーンとして語り継がれている。

*4:現代でよく使われる冷笑系冷笑主義とは別らしい